昭和48年12月23日 朝の御理解
御理解 第23節
「氏子が神と仲ようする信心ぞ。神を恐れるようにすると信心にならぬ。神に近寄るようにせよ。」
金光様の信心は氏子が神と仲ようする信心ぞという。神と仲ようする信心、お道の信心を頂くものは、神と仲ようする信心、神を恐れるようにすると、おかげにならん 神に近寄るようにせよ。神様の中にはやはりこわい神様もある。罰を当てなさると悪い事をすると罰を当てる。そういう観念が私共にありますから、神様がそういう罰を当てなさる神様、だから神様に近寄ろうとしない。
障らぬ神に祟りなしと言う様な言葉は、そう言う所から出てきたものであろうと思いますね。障らぬ神に祟りなし、おかげを受けると言う事もあろうけれども、一つ違うと反対になる。いわゆる罰を当てなさる。だからそういう神様ではないと言う事をわからせて頂く。これは人間でもそうです。夫婦が仲よう、親子が仲よう、兄弟が仲ようする。仲ようするという事がおかげを頂く基になる。
ところで仲ようするために、仲がようなからなければいけん。中というのは心の中いうなら心がようならなければいけん。心がようなからなければ仲ようなれない。いうならば、神様は水のようなもの、四角いものにいれれば四角になる。丸い器に入れれば丸くなり、どんなに窮屈なところでも、そこを抜けて通る水の生態、又そこを堰き止められても、段々段々水が多くなって、流れてくるとそれの上を越えていったり、又は横から流れて行くと言う様に、いわゆる自由無碍な心、善い心とはそういうものだと思う。
どういう中であっても、腹が立たんですむ信心、心を暗くしないですむおかげが頂けるのが善い心。それはそうでしょう。そこで私共の心が油のようであって、神様の水のような心に、一緒になろうと思うても仲ようなれません。水の中に油を入れるような、別れてしまう。そこで私共が腹が善うなからなければ神様と仲ようなるという事は出来ないのであります。只毎日お参りをして近づくと言う事は、そう言う事ではない。心が近づくということである。
余り毎日々参ってきよって、神様が一つも有難くなくなってくる人すらがある。先生をただの人間のように見るようになる、友達のようになる。お取次の働きというものがです、そういう例えばことではもう、先生を友達のごとなったから、なら先生と仲ようしよると言う事ではない。信心でいう仲がよいというのは、先生が右といいござるなら自分も一生懸命に右になろうと精進する。
そこに精進しようと思うけれども、異質な心が一緒になれない。例えば親教会の御造営が、まあ思いたたれようとしている。そこで合楽教会としても、いち早くそれに奉讃させてもらおうと、私がいうならきばっておる。だからいうならば親が親教会にそれだけ尽くされるなら、私共も一つ尽くさせて頂こうという。その純粋なその心が、神と仲ようする信心であり、親先生と仲ようする信心である。
親先生の心になろうと言う事、神様の心になろうと言う事、そういう心掛けを持たせて頂くことが、神と仲ようすることになるのです。神様といわゆる先生と、友達のようになる。如何にもそれは見かけは仲ようしよるようであるけれども、おかげが頂けるための仲ようじゃない。神様が喜こんで下さるような、意味での仲ようなると言う事ではない。仲ようなると言う事は、先生の内容と自分の内容が一つになると言う事。
神と仲ようするということは、神様の内容と、私共の内容が段々同じになってくる 神様が水なら私共も水になろうということ。それが神と仲ようする信心だ。実は今日は私は、御理解二十七節を頂いとったんです。そしてこう、四十一ペ-ジから四十二ペ-ジですかね、そこんところを頂いとったんですけれども、こうはぐる時に一枚よけいはぐっとる。だから二十三節、あらっと思うたけどね、けどこれを神ながらと思うて、今のことを開いてもらった。
いわゆる氏子が神と仲ようする信心ぞと、と言う事は、只繁々とお参りをすると言う事だけではない。神様の心を自分の心の中に頂こうとする心が、自然と仲ようなる、一つなることが出来る。親先生と仲ようすると言う事は、親先生の内容と同じ心になる。それを素直な心という純粋な心という。素直な心にならせて頂く所にです、いうならば親先生が右に行こうとなさると、なら私も右について行こうという心になってくる。
ところが先生が右に行くち言いござるばってんが、どう思うたっちゃ右に行かれんもう左の方へ行こうということでは神と仲ようする信心になれない。だからここんところをね、一つ本気で信心させて頂いて、神様と仲ようするという信心、仲ようする信心を、今日は○少の方達が多いが○少方達も折角信心しとるのであるから、子供ながら少年の時から、神様の心に適う心の状態を頂こうという、精進を持たなければいけない。
昨日文男先生が、田主丸の共励会から帰ってきて、それから十二時過ぎて、それから二時間くらい御用、二時間二人で一生懸命信心の話をした、信心の話ちゃ眠さもなにも忘れてしまうものだと思うた。その中に私は最近共励会に行って、末永先生の信心が、大変飛躍されたということもうちょっと、大変に信心が進まれたという話をしておった。それはね、私は末永先生が、本気で親先生の心に添わせて頂こう、神様の心を頂かせてもらおうということに精進しておるからだと私は信じます。
でなからなければ助からんと言う事が分って来た。自分自身が助からなければ人も助からない事がわかってきた。だからお道の先生を志してもらう限りお道の教師を志さしてもらう限り、まずは私が助からなければというところに、そんならどう言う事になると助かるかというと、親先生の心の状態になったら自分も楽だろうと言う事なってきた。親先生の言われる事に純粋な心で素直に受けて行くことが非常に強くなった。これは文男先生じゃなくて、誰でも最近それに気がついておる。
それも完璧とか立派に出来たとかいうことでは決してない。けれども目的が只自分さえよければというのでなくて、沢山の人が助からなければという、お道の取次者としての願いを立てた。願いを大きいところにたてた、神様が喜こんで下さるようなところにたてた。そこからです、自然とこれは普通の者のようには出来ん。心も人よりも美しゅう綺麗にならなければ、そこに末永先生の助かりがあり、人が見ても成程最近、先生の信心が目ざましいと言われるのもそこにある。
私は今日は今言う、二十三節を聞いて貰おうと、いやそうでもない二十七節です大体、一枚はぐった所からだった。又一枚はぐり過ぎて三十三節を今の氏子と神の仲ようする信心の話になったが、ははあこれもやっぱり神ながらであったが、ここんところを聞いてもらわないと、二十七節の本当の意味が分らないと思うた。二十七節を読んでみましょう。「昔からあの人は正直な人じゃ、神仏のような人じゃという者でも、段々不幸な事が重なって、世間ではどう言う事であうかと言う様な事があろうが。
何程人に悪い事をせぬ正直者でも、人が良いのと神に信心しておかげを受けるのとは別物じゃ」と仰る だからおかげを受けるという事であるならば、神様と仲ようせんでもよい。神様と同じ様な心になろう、親先生と同じような心になろうと言う様な精進をせんでもおかげは受けられる。おかげは受けられるけど自分自身が本当に助かる、心が助かると言う事、それが人までも助かると言う様な事は、やはり出来ない。
だからお互いの信心がです、只、改まらなくっても、研かなくってもおかげを受けられるから、只、参ってさえおれば、先生のお取次さえ頂いとればおかげが受けられるというのでお終いになったら金光様の信心の値打ちはないのである。確かに金光様の信心を沢山している人の中には、あんな人あんな根性の悪い人というのは幾らもあるんです。それでもやはりおかげは受けている。
だからそういうおかげでは値打ちがない。ならばどういう信心が値打ちがあるかと言うと、神と仲ようする信心ぞという、信心をするのが値打ちがある。なら神と仲ようする、一緒になろうとするためには、神様が水なら私共も水にならなければいけないと言う事になる。仲よう出来るはずがない水と油で、そこでです神様が水なら私共も水になろうとという位な、いよいよ純粋な素直な信心にならせて頂こうと言う事の為には、お互いの願いというか目的というものを、もう高いところに置かねばいけない。
同じ材木でも例えば神様の御扉になるような、八足になるような、又はお三宝になるような材木もある。廊下の木になるものもあれば、便所の踏み板にしかならないものもある。同じ木なんだ。同じ人間に生まれさせて頂いたら、神様のお取立てを頂いて、神様のそばに近う寄れるおかげを頂くことを願いとしなければいけない。神様の傍に寄せて頂く、いわゆる八足やら三宝やら神様のいわゆる御社やら御扉になるような、同じ木でもそのようになってくる。
だから神様の傍に寄せて頂く、神様に仲ようする信心がまず出来なければ、傍には寄りつけないのです。神様が傍に寄せて下さらん。神様いっちょあんたと仲ようしましょうやという訳にはいかん。心易う親先生をつかまえて、友達のようにしておると言う事が仲ようするのじゃない。親先生の心に添うことが、親先生が水なら私共も水になろうとする精進が親先生と仲ようする信心だ。
親先生が親教会御造営の事に一生懸命なら、自分達もいわばそれぞれ真心こめて、親先生の心に一緒にならせて貰うと言う様な心が神と仲ようする信心。親先生が右といいよんなさるばってん、これだけはもう左に行かにゃと、これは仲ようするのしゃなくて、反対に遠うなって行く事になる。そこでです、神様と仲ようする信心と言う事になってくる時に、例えば二十七節では、どう言う事になるかというと。
神様のような人じゃ、仏様のような人じゃというても、心が大変美しい人であっても、信心をしなかったら、おかげを受けられないと言う事がわかる。ならそういう神様の心に適う人がです、なら信心する事によって自分自身が助かるという事になる。自分が助かるというだけではない。人までも助かるという事になる。末永先生じゃないですけれども、人が助かる事の為の犠牲ならば又は修行ならば、もうどんな修行でもさせてもらおうというような元気な心も生まれてくる。
願いが高い。一番高度なところにおって、これならば例えば廊下の板やら、便所の踏み板のように人から汚いところで踏んづけられるような事は決してないだろう。神様が傍に傍に引き寄せて行きなさるだろう。そこでですもうおじいちゃん、おばあちゃん又は今日お参りしとる皆さんの場合はもうそこは出来んにしましてもなら、丸少の人達ならば今発心すればそれが出来る。
私もいっちょ、うんと勉強さしてもろうて信心さしてもろうて、お道の教師に取り立てて頂こう。私はどうでもこうでもお道の先生になろう。そういう願いを立てて信心をするならばです神様が必ずそちらの方へ引き立ててくださる。いわゆる神様の傍へです、同じ人間に生まれてです、人から踏まれたり汚いところに、いわゆる分の悪いところにおるような一生で終わるよりもです、神様の傍にお引き寄せ頂いて、神様のいうならば、神様の方から仲ようしようと求めて下さるようなです。
願いを立てて信心をさせて頂くなら、そこから人も助かる、自分も助かる、金光大神も喜んで下さる、天地の親神様もまた喜んで下さると言う様な、本当の意味に於いてのおかげの道が開かれてくるわけなんです。今日は何か丸少の方達に対する御理解のようだったけれども、決してそうではない 神と仲ようする信心とは日参り、夜参りする信心では決してない。最近熊谷さんの信心が素晴らしい。
昨日文男先生が言ってました。もうとにかく手が届かんくらいに飛躍しておられる。それはどう言う事かというと、熊谷さんの場合なんかもう、親先生の生き方在り方に本気で身につけようとその事に精進してある。それが朝参り夜参りの稽古になっとる。おかげを頂かんならんから、毎日、毎日朝参り、日参りしよるとと全然その感度というかね、いわゆる程度が違う。だから感度そのものも素晴らしい感度になってくる。
どうぞ一つ良い信心、どうでも神と仲ようする信心、正直者でなくて、悪人であっても、なら信心すればおかげを受けられるけれども、それはそれだけのもの。私共一つ本気でです、神様と仲ようする信心、神様の内容を自分の内容とさして頂くところに焦点、精進させて貰う様な信心。そして人が助かる事のために神様の傍に、いやがおうでも寄らなければ、神様が引き寄せて下さるような信心を頂きたいですね。
どうぞ。